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文藝春秋
グループ:Book
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価格:¥ 788
発売日:2006-07
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カスタマーレビュー ![]()
ユダヤ人より内田樹のことが気になってくる本。
(2008-10-19)
本書では、我々の国民国家、政治単位、経済、文化といった既存の考え方、思考のカテゴリー
では把握しきれない「ユダヤ人」という概念と、時代がいくら下ろうと根絶されないそのユダヤ人
の迫害、「反ユダヤ主義」について著者内田樹が、「師」と仰ぐレヴィナスとサルトル、フロイト
の思想を援用しながら考えていく。
内田はこれまで、古今東西あらゆる事象を論じてきた。
しかし、そのほとんどが彼の専門外の論題である。本書のテーマ、ユダヤ問題にしろ、彼は自
分が厳密には門外漢であることを明かす。他の本(街場の中国論)でもそう書いていた。
なぜそのような自分の領域外の事象についての本を出し続けるのか(できるのか)。
それは挑戦であり、一種の「思考実験」であるからだと思う。
彼が常日頃述べているのは「常識的に考える」ということ。与えられた情報のみを精査して、
論理的に考えていき、常識的な見解を見出すこと(それだけに、「現場を知らない」という
批判を浴びることも少なくないらしいが・・・)。
元東大総長の蓮見重彦はかつて、「知性とは、何よりもまず、知性そのものの限界をみきわめ
る力にほかなりません。」と言った。内田があらゆることを論じるのは、その知性の限界をへの
挑戦なのではないだろうか。
それが故に今回の対戦相手、「反ユダヤ問題」は格好の相手ではないだろうか。なぜなら、先
にも論じたように、ユダヤ人というのは、我々の価値観、ものの考え方では到底とらえきるこ
とができない、「知性の外」に存在する概念なのだから。
物腰は柔らかいが、時代を現在席巻しているおそろしく鋭敏な「おじさん的知性」が
ユダヤ問題を深くえぐる(料理する?)。
鋭い分析でした
(2008-09-29)
この本のテーマは「ユダヤ人はなぜ差別されるのか」という点にある。
もっとも、内田氏は「ユダヤ人が差別されるのには理由がある」という事を論じたいのではない。
そうではなく、筆者は、ユダヤ人差別には、客観的な根拠が存在しないにも拘らずなぜユダヤ人差別が歴史的に繰り返されてきたのかという点を解明しようとしている。内田氏の言葉を借りれば、「反ユダヤ主義には理由があると信じている人間がいることには理由がある」ということの論証を試みているのである。
以上のようなことを論じるために、日本人とユダヤ人の関係、歴史的な反ユダヤ主義の形成過程を考察する。そのなかで、筆者が導入した「ペニーガム法」という人間の性質は、個人的には興味深かった。すなわち、人間は何か一つの結果に対しては、必ず単一の原因が存在するものだという推論を行ってしまうという性質のことである。本書の中盤においては、この「ペニーガム法」を中心にユダヤ人の差別原因が考察される。西欧社会においては、何か良からぬ事(不景気、戦争など)がおこると、このペニーガム法に基づいて、犯人探しが行われる。犯人として、槍玉に挙げられるのがユダヤ人なのである。
端的に言えば「ユダヤ人はスケープゴートでした」ということになると思われるが、内田氏は、具体的な歴史的事例に基づきことのことを、緻密に記述しているので、単にユダヤ人はスケープゴートに過ぎないという、一文では済まされない考察が行われている。
また、「なぜユダヤ人は知的なのか」というテーマついても、興味深い分析をしており、読んでいて興味は尽きなかった。また終盤では、フロイトを引用して、心理学的、神話的にユダヤ人差別の構造を分析しようとする場面もあるが、そこは私の浅薄な知識では対応できず、理解に苦しんだ。それでも、全体としては、鋭い社会科学的分析に唸らされたので、☆5つ。
中身は「反ユダヤ文化」論
(2008-08-11)
「どのようなタイプが陰謀史観にはまりやすいか」に関しては目を見張るほど精緻でクリアな精神分析が展開されるが、「本当に陰謀史観は虚妄なんですか?」という疑問にはほとんど答えてくれない。「(私もしばしばそういう考え方をする事がある)」とか書いてるし。陰謀論を布教するメーワクな隣人のいる方は、溜飲を下げるためにおすすめ。陰謀論の真偽に興味のある人には何の参考にもならない。
後半のレヴィナスの思想を軸とするユダヤ文化論は変なレトリックにはまっていて、わけが分からなくなっていく。「人間は間違うことによってはじめて正しくなることができる」とか言い出す始末だ。それゆえの禅の公案のような、思考を刺激する魅力はある。「今のままじゃ嫌だ!」という衝動を抱える人間は、ユダヤ人以外にもたくさんいると思われるが、非ユダヤ人、特になれ合い社会の中の日本人が現状を変革しようとすると、嫉妬されるのが怖いせいで「妬まれる勝者より憐れまれる敗者のほうが居心地がいいかも」という迷いの生ずることがある。ユダヤ人は勝敗に関わらず疎まれることが保証されているおかげで、純粋に勝ちを志向することができるのかなと思った。ユダヤ人の頭の良さはうらやましいけど、その頭の良さの育まれる状況はうらやましくないです。
とても内容の濃い本
(2008-03-30)
反ユダヤ主義は、ヨーロッパにおいては他の人種差別とは違う流れを辿ってきた。
ユダヤ人とは、あえてユダヤ信者であることの不利を選択し、自分のアイデンティティを固持しようとする「かたくなさ」と、ユダヤ教がキリスト教の「尊属」であるという性質を持っている。それが、ヨーロッパ人にとっては、他の人種に感じる「異質」への意識とは、違ったインパクトをユダヤ人に対して感じさせたのである。
そして、ユダヤ人の連帯感・アイデンティティの立て方は、現在でも国民国家の枠組みに収まらない。
アイデンティティの立て方としては、「この風土の中に、自分達の存在は、当然に生得的な権利を有していると、考える」人間と違って、ユダヤ人は、「私は遅れてここにやって来たので、<この場所に受け容れられるもの>であることをその行動を通じて証明して見せねばならない」と考える。
そして、「自分が判断する時に依拠している判断の枠組みそのものを懐疑すること、自分がつねに自己同一的に自分であるという自同律に不快を感知すること」を自らに課す思考形態を持つ集団がユダヤ人であり、それは「知性的」な考えなのだけれど、集団としてそういう考えを持っているというのは、やはり「異質」であろう、と著者は言う。
私は個人的に、ユダヤ人に対してはあまり考えた事は無いので、今のところは著者の考えるユダヤ人の定義に賛成も反対も無いのだが、“そういう考え方が出来るのか…”と、新鮮な記述が多く、非常に興味深かった。
あと、面白かったのが、第三章 反ユダヤ主義の生理と病理。
モレス侯爵やドリュモンという人を、私はこの本で初めて知った。ファシズムやプロパガンタ的論証の手法の雛形は、この人達が作ったのか!(或いは、この頃から存在したのか!)と、正直言って驚いた。根拠の無いものや、一見馬鹿げて見える考えも、時期が上手く当てはまれば、大衆に敷衍することが有る。そして、その人が、歴史的に大きな足跡を残す行動を取らなくても(取れなくても)、その人個人に対する記憶が消えても、その言説がどこか人の琴線にふれる「物語」であれば、後の歴史に姿形を変えながら、影響を残してしまう事も有る。(逆に言えば、論理的でなく、筋もロクに通っていないアジテーションの方が、インパクトが強いのかもしれないが…)そんな歴史の不思議を感じさせてくれた。
神との対峙
(2008-03-13)
我々日本人は「逝きし世の面影」(平凡社ライブラリー:渡辺 京二 著) にも有るように、江戸末期から明治にかけては、とても無邪気で人懐っこく、好奇心旺盛で幸せそうな人々だったと外国人の観察者は言っています。この部分は近代化を遂げ、個人間の対立と競争を発見したはずの今の日本人でもあまり変わっていないのではないかと思います。
でも、この「ユダヤ人文化論」に書かれているような、神との絶対的で徹底的に突き詰められた「個」の追求とは何とかけ離れているのか。なぜにここまで孤独に個だけが永続的に神と対峙しなければならないのか。我々日本人はこの点に関してはそうとう異なる民族です。
日本人はどちらかと言うと大衆の中の一人である事の方が心地良いようです。日本人は常に大衆あるいは集団として天あるいは宇宙に対峙して来たのでしょうね。日本人もあくまで個を磨くべきか、集団のぬくさの中に埋もれている方がいいのかは、はっきり言って解りません。良い悪いの問題ではないような気がします。
「夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録」(単行本 V.E.フランクル 著 霜山 徳爾 訳)を読むと、アウシュビッツで生き残った人達は最後には、「この辛苦は神から特別に我々ユダヤ人に与えられた試練、誇りを持って自信を持ってこの経験に耐えよう」と考えたそうです。これもユダヤ人ならではの考え方です。アウシュビッツにユダヤ人ではなく、万が一日本人が収容されたとしたら、その日本人はどのような行動をとったのか、どのようにその体験を考えたのかとても興味がありますが、そんなことが無くて良かったと思う方がまともかもしれません。
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